人に寄生する野犬たち

イヌの本能行動が変化したのは、品種改良のせいだけではないようです。

2004年と2006年に、私はインドで野犬の調査をしました。また、タイとミャンマーの国境近くのタイ側でも同様の調査をしました。私は、トラをはじめとする野生動物を撮影・研究するので、フィールドーワークにはある程度のスキルを持っています。

とはいっても、野犬の場合の調査手法は、その土地に何泊かしてひたすらイヌたちを観察するという、いたってシンプルなものです。

インドの「野良犬」は、実に巧妙にヒトの近くに棲みつき、食糧を得ています。徘徊しているほとんどのイヌたちは誰かに飼われているわけではありませんでした。

しかし人間の住居のまわりをうろうろし、あるときは路地裏でゴミ箱をあさり、またあるときは人に食物をねだりながら生きていました。

東インド最大のヒンドゥー教の聖地といわれるフリーという都市があります。海に面した中規模都市です。その海岸では、イヌたちがヒトの糞をエサにしていました。

この地域には、早朝に漁師たちがいっせいにビーチでしゃがみ込み、波打ち際を「水洗トイレ」にしてしまう、という伝統があるのです。日本人の一般的な衛生観念からすれば、受け入れがたい奇習に思われるかもしれませんが。

動物行動学者は、このインドの野犬たちの状況を「寄生」という言葉でくくってしまうことでしょう。その通りです。イヌたちは人間に寄生して生きています。しかし少し視点をずらしてみれば、イヌたちは本能を抑え込むことによって人間と巧みに「共生している」という見方もできます。

南インドのケーララ州では、岩場に子イヌを隠しながら育児を続ける母イヌの行動を数日にわたり観察しました。岩の中を覗いてみると、出入口は狭く傾斜も急なのですが、奥のほうには子イヌたちがくつろげるだけのスペースがありました。

この巣穴は、子イヌの安全を確保するための母イヌの閃きの成果ともいうべきものです。探しあてるのは決して容易ではなかったはずです。ここもあたりは海沿いです。昼間は、陸揚げされた小舟の下を巣にし、子イヌたちはときどき出て来て遊びます。

母イヌは、子イヌの目の前で自ら仰向けに寝転がり前脚をたたんで、「服従のポーズ」を教えていました。

インド国内、どこへ行っても、野犬の多くが栄養不足のためか痩せ細っています。疥癬などの皮膚病を患っているイヌも目につきました。都市部のイヌたちには無理ですが、地域によっては自分たちで狩りをすればエサは手に入るはずです。しかしかれらにそんな気力はないのかもしれません。

タイの野犬も、インドと似たりよったりの「寄生生活」をしています。

インドやタイの一部には、「パリア犬」と呼ばれる古いタイプのイエイヌが土着しています。現在も、アジアや北アフリカの一部の地域に、その子孫が見られます。シーボルトが長崎から持ち帰ったイヌの頭骨を調べてみると、パリア犬と酷似していたという記録があることから、19世紀には日本にもいたとされています。野生生活をしていたパリア犬が、食糧を求めてしだいに人の居住区に入り込み、街犬となったようです。

こうしたイヌたちは、ほとんど何の役にもたたない存在です。しかし人に寄り添いながら多くの「野良犬」が生きていけるのは、宗教と無関係ではありません。

インド人の8割以上が信仰するヒンドゥー教では、殺生を禁じています。輪廻転生の発想から、人々の中では、動物と共生していこうとする(あるいは動物がいても特に気にしない)気分が醸成されているようです。また、仏教にも、基本的には動物と共生していこうとする傾向があります。

タイには約3万もの仏教寺院があり、その多くにイヌが寄宿しているのです。

と、ある意味、イヌとして理想的な生活を送っているかに見えるアジアの野犬たちですが、進化生物学的な視点でとらえれば、次のことがいえます。

現在の野生犬やオオカミの暮らしぶりから類推すれば、元来、イヌは捕食本能による狩猟行動をしていたと考えられます。獲物を見つけて、忍び寄り、追いかけ、咬みつき、食べる、という一連の行動パターンです。しかし、アジアの野犬(すべてではないにしても、少なくとも都市部とその近郊にいる個体群)は、この本能を失っているのではないかという印象を受けます。

イエイヌは、家庭犬だけでなく野犬においても、その本能を改変させていくことで、社会的適応を果たしてきた、と私は考えます。そこには、人間の都合や生活スタイルに合わせてイヌ自身が自らの本能を変えたという側面があるのです。

 

危機回避能力が低下したイヌ

動物行動学の父と言われることもあるコンラート・ローレンツは、同じ種の個体間でちがいが見られない行動を「固定的行動パターン」と名付けました。固定的行動パターンは、本能に組みこまれているとされています。しかし私は、この「固定的行動パターン」という概念には、強い抵抗感を持っています。この表現には、「生まれ重視」の考えがあまりにも色濃く反映しているからです。

本能は生まれたときから「ある」とは限らないのです。そしてまた、本能は不変とは限らないのです。

たとえば、ボーダー・コリーが羊を集めるのは、本能だといわれています。しかしその能力は、先天的なものではありません。先輩犬が羊を集めている姿を一度も見たことがないボーダー・コリーは、羊を集めることができない、と報告されています。

従来、一部の人たちは、ボーダー・コリーが羊を集めるのは「先天的」と思い込んでいました。なぜでしょうか? 農場で仕事をするほとんどのボーダー・コリーは、ごく当たり前に、親や先輩の行動を観察する機会に恵まれていたからです。

ここで確認しておきたいのは、次の点です。

イヌの本能は、選択育種によっても消滅させることはできない。ただし、選択育種は、本能行動におけるすさまじい量の差(というより質の差)をもたらしている。

具体例をあげてみましょう。ゴールデン・レトリーバーやラブラドール・レトリーバーは、服従性を高くし、攻撃性を低く抑え込む″品種改良″が重ねられてきました。その意味で飼いやすい犬種となり、日本だけでなく欧米では特に根強い人気があります。

しかしこの品種改良は、一部に異常なイヌを生み出しています。おとなしすぎてほとんど反応を示さなかったり、きわめて注意力の散漫なイヌがいるのです。

以前私は、ある犬のふれあい施設で、雌のゴールデン・レトリーバーが、発進した車の夕イヤに脚をひかれた場面を見たことがあります。運転していた人が急ブレーキをかけたので大事には至りませんでしたが、皮膚の一部がすりむけて鮮血が滲んでいました。

「ふつうなら、エンジンをかけて発進すれば、飛びのくのに」とその人は驚いていました。

イヌは車から4メートルほど離れたところで、寝そべっていたのですが、タイヤの圧力が自分の脚にかかり始めて(あるいは、かかり始める間際になって)、ようやく逃げ出したのです。眠っていたわけではありません。明らかに車が動き出すことをわかっていました。

このイヌは危機回避能力が低下しているのです。年齢を確認してみると、20ヵ月齢くらいということでした。人間に換算すれば、20歳くらいに相当します。

近年さらに問題なのは、以前はほとんど報告されていなかった、「てんかん」による攻撃行動を示すゴールデン・レトリーバーやラブラドール・レトリーバーが報告されていることです。品種改良をし、血縁の近いものどうしの交配を重ねたことで、「道を踏み外した犬」がつくり出されていると思われます。