危機回避能力が低下したイヌ

動物行動学の父と言われることもあるコンラート・ローレンツは、同じ種の個体間でちがいが見られない行動を「固定的行動パターン」と名付けました。固定的行動パターンは、本能に組みこまれているとされています。しかし私は、この「固定的行動パターン」という概念には、強い抵抗感を持っています。この表現には、「生まれ重視」の考えがあまりにも色濃く反映しているからです。

本能は生まれたときから「ある」とは限らないのです。そしてまた、本能は不変とは限らないのです。

たとえば、ボーダー・コリーが羊を集めるのは、本能だといわれています。しかしその能力は、先天的なものではありません。先輩犬が羊を集めている姿を一度も見たことがないボーダー・コリーは、羊を集めることができない、と報告されています。

従来、一部の人たちは、ボーダー・コリーが羊を集めるのは「先天的」と思い込んでいました。なぜでしょうか? 農場で仕事をするほとんどのボーダー・コリーは、ごく当たり前に、親や先輩の行動を観察する機会に恵まれていたからです。

ここで確認しておきたいのは、次の点です。

イヌの本能は、選択育種によっても消滅させることはできない。ただし、選択育種は、本能行動におけるすさまじい量の差(というより質の差)をもたらしている。

具体例をあげてみましょう。ゴールデン・レトリーバーやラブラドール・レトリーバーは、服従性を高くし、攻撃性を低く抑え込む″品種改良″が重ねられてきました。その意味で飼いやすい犬種となり、日本だけでなく欧米では特に根強い人気があります。

しかしこの品種改良は、一部に異常なイヌを生み出しています。おとなしすぎてほとんど反応を示さなかったり、きわめて注意力の散漫なイヌがいるのです。

以前私は、ある犬のふれあい施設で、雌のゴールデン・レトリーバーが、発進した車の夕イヤに脚をひかれた場面を見たことがあります。運転していた人が急ブレーキをかけたので大事には至りませんでしたが、皮膚の一部がすりむけて鮮血が滲んでいました。

「ふつうなら、エンジンをかけて発進すれば、飛びのくのに」とその人は驚いていました。

イヌは車から4メートルほど離れたところで、寝そべっていたのですが、タイヤの圧力が自分の脚にかかり始めて(あるいは、かかり始める間際になって)、ようやく逃げ出したのです。眠っていたわけではありません。明らかに車が動き出すことをわかっていました。

このイヌは危機回避能力が低下しているのです。年齢を確認してみると、20ヵ月齢くらいということでした。人間に換算すれば、20歳くらいに相当します。

近年さらに問題なのは、以前はほとんど報告されていなかった、「てんかん」による攻撃行動を示すゴールデン・レトリーバーやラブラドール・レトリーバーが報告されていることです。品種改良をし、血縁の近いものどうしの交配を重ねたことで、「道を踏み外した犬」がつくり出されていると思われます。